私の死刑制度に対する考え方 OK弁護士
2009年09月22日
私の死刑廃止論は,以下のとおり,単純明快です。
1 国家刑罰権の目的
まず,国家の刑罰権は,何のために存在するか,という問題があります。
それは,一般予防と特別予防のためです。
そして,これは,尊属殺に関する1948年大法廷判決が,憲法は,死刑の威嚇力によって一般予防をなし,死刑の執行によって特殊な社会悪の根元を絶つために,死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられると判示していることと軌を一にしています。すなわち,最判の立場は,一般予防及び特別予防の見地から,まだ死刑は必要だと言っているのです。そして,死刑に殺人の一般予防効果があるとはいえず,特別予防のためには終身刑で十分です。したがって,現代では,刑罰目的からは死刑は存在の根拠がないことになります。
なお,この最判には,報復(復讐)の観念が入っていないことに留意してください。
2 復讐の観念
次に,検討すべきことは,復讐の観念についてです。
復讐の観念を払拭しなければ,死刑廃止への道は開けないし,それを払拭すれば死刑廃止への道は自ずから開けてきます。すなわち,復讐の観念を払拭することこそが,死刑廃止に至る王道で,それ以外に道はないと思います。
穂積陳重は,明治の時代に,「実に復讐の念なくんば,野蛮社会は殆ど成立つことが出来ぬくらい大切なもの」だが,社会の進歩するに従って廃滅されるということを次のように言っています。
「人間がまだ下等動物であって,四つ這いになっておったなら,背中などにたかる蜂を逐うたり,虻を払ったりするために尾が必要でありましょうが,直立することが出来,うしろに手を廻すことが出来れば,最早や尾は真に「無用の長物」となる勘定であります。復讐の念はちょうど動物の尾のようなものでありまして,社会が虻蜂を逐うてくれて,痒い所に手が届くようになればいらなくなるものであります。」(明治21年,大学通俗講談会における講演)(岩波文庫「復讐と刑罰」所収.絶版)。
被害者遺族の復讐(報復)感情は,人間的で自然なものとして理解することはできます。しかし,当事者でない者は,穂積陳重が言うように,そうであってはならないと思います。
要するに,報復(復讐)の観念を克服しさえすれば,自然に死刑廃止の考え方に到達するのです。
3 「正義」の問題
死刑廃止論者に対して,存置論者は,必ず,人を殺した者は自らの命をもって償わなければ正義に反する,と反論します。
しかし,これに対しては,誤判によって死刑の執行をする国家の不正義は,それとは比べものにならないくらい深刻であると反論できます。すなわち,
誤判によって死刑が執行されたら,国家は取り返しのつかない不正義な過ちを犯すことになります(かつて,法務省は,刑訴法の規定にもかかわらず,6か月以内に執行せず,死刑確定後,何年も経ってから執行している理由を,次のように説明したことがあります。万に一つも法務大臣に誤って判を押させるような取り返しのつかないことをしないように,記録を精査し間違いないことを確認したうえで執行指揮書を法務大臣に上げているからだ,と。これは,法務大臣に,誤って,取り返しのつかない不正義を犯させることがないよう配慮していたことを示すものです)。
そして,その危惧は,足利事件と飯塚事件によって,観念的な議論のレベルの問題ではなく,今,実際に起きている現実の問題となっています。
すなわち,足利事件はDNA鑑定によって冤罪であることが完全に証明されましたが,もし鑑定資料がないためにその証明ができなかったら,再審の扉は開かなかった可能性が高いと思われます。
飯塚事件は,足利事件と同じ構造の誤判の問題があると考えざるをえませんが,すでに執行されてしまっています。
このように,死刑制度がある限り,誤判によって無実の人が死刑になることは,必ずあります。そして,それを実証したのが,足利事件と飯塚事件です。
国家が,このような不正義を犯す危険性を孕んでいることを直視すれば,仮に百歩譲って,「人の命を奪った者は自らの命を以て償うのが正義に適う」ということを承認したとしても,それを実行しないことによって生じる不正義の程度は,国家が無実の人を誤って死刑執行したときに生じる不正義の程度に対して,比べものにならないくらい小さいといわざるをえません。
以上が,この問題に対する私の反論です。
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