中村治郎弁護士に対するOK弁護士の意見

2009年09月22日

中村治郎先生 

私見に対する先生の応答は,後述するように,私見と完全に整合しています。ところが,それが,このように(N先生にさえ)誤解,曲解を招くかのような読み方をされてしまうことが,そもそも中身の議論が積み重ねられていない証拠であって,大問題だと思うのです。

私は,箱モノは,もちろん廃止路線のほうがいいと思いますが,存廃でも一向に構いません。それは,存廃の議論の中でも,廃止という自説をいくらでも述べられるからです。日弁連内で,廃止路線を通すのに難儀するくらいなら,存廃路線で,活発な(中身の)議論をするほうが,ましだと思います(実を取ればいいだけだと思うからです)。

私見については,以前、弁護士会のメーリングリストで
「死刑廃止の議論には、①国民の意思②議会の意思③個人の尊重の3つの考え方があると思います。①はだめで、②によるべし、というのが国連の勧告。私には当たり前のことのように思えますが、②でも、多数派の意思が反映される議会制民主主義の下では、死刑廃止の前には大きな壁があることになります。さらに、人権尊重の考えが進み(すなわち、民主主義が成熟して)、多数派が自分の利益(仮に報復の観念を克服できたとしても、一般予防に対するこだわりは残る)をある程度抑えてでも、究極の少数派である個人(死刑存置の下では、死刑判決を受ける可能性のある人)の最大の人権である命も尊重しようというのが③です...」と述べ,
「「死刑と民主主義」というテーマに関しては,わかっている人は受容的に読んでくれますが,批判的に読む人は,「欧州評議会」のブックレットも,だから社会には死刑が必要なんだ,というふうにも読めそうです。したがって,死刑は,民主主義の質が問われる問題なんだ,ということを説明する必要があります。次に誤判の問題ですが,誤判の可能性を抽象的・一般的にではなく,裁判というものの構造から制度的に,常に,具体的な可能性として持っていることを説明する必要があります。それから,復讐心,報復感情は,人類が本能として持っているといった硬直的な考えが意外と,常識として浸透しているように思えるのですが,決してそうではなく文明が進歩し,すでに克服済みだということも,説明する必要があります。」と述べ,
「1  欧州評議会の小冊子で「死刑と民主主義」「死刑と正義」について書かれていますが,死刑制度は成熟した民主主義社会にはふさわしくない,そして死刑制度は正義に反するということは,一般には必ずしも自明のことではありません。先日も,ある熱心な委員と話していて,私が「民主主義は人権尊重のための制度である,残虐な刑罰は人権尊重の精神に反する,死刑は残虐な刑罰であるから民主主義とは相いれない」と話したところ,「死刑が残虐な刑罰であるとは必ずしも言い切れない」と反論されました。ずっと以前に私が死刑制度は民主主義とは相容れないと新聞に投書したことが,最近,あるきっかけからブログで取り上げられて批判されました。(そんな投書をしたを忘れていましたが,)私もその理由は何だったかなと,しばらく考え込みました。ことほど左様にわかっている人には当たり前のことが(欧州評議会の小冊子もしかり),そうでない人には容易に受け入れられません。そこで,原点に立ち返る意味で,本質なところから考え,この点を分かり易く説明する工夫をしてはどうかと思います。2  誤判の問題(最近の痴漢事件無罪最判の少数意見などでも,事実誤認の裁判が制度的に容易に起きること,したがって1票差で死刑か無罪かが決まるのは,最高裁でも何ら不思議ではなく,例外的なことではなく,必然的なことがわかります。したがって死刑事件に誤判がないなどとはまかり間違ってもいえるはずがない。しかし世間ではその逆に思われている)。このことも死刑と民主主義の問題として捉えられると思います。3  政治指導者は世論に従うのではなく世論をリードし説得していくことが求められるということを受けて,当委員会がその推進役になるべきだと思います」

 なお,国家が無実の人を誤判によって死刑執行するという不正義は,個人が犯す不正義がいかなるものであっても(それが,たとえヒトラーやフセインであったとしても,彼らが動かした国家が問題なのであって,彼ら個人に限って言えば),比べものにならない無限大の不正義ですから,私見の正義論では,「極悪非道な犯罪者は,死刑になってもいたしかたないという考え方になってしまいがち」だというN先生のご指摘はあたらないと思います。

 

 


 

 


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