裁判員制度と死刑廃止  中村治郎弁護士

2009年10月01日

 最近、私は、死刑廃止論の論拠について、洗い直しをしています。死刑存置論者に対して、戦いを挑むためには、死刑廃止論を精緻なものとせざるを得ないと考えるようになったからです。これまでは、死刑存置論者に対する説得は無理だと思っておられた死刑廃止論者の委員の先生方にお願いします。過去の考え方を捨てて、大いに議論しようではありませんか。
 私は、以下の通り、別の角度から死刑廃止に向けた活動が急務であることをアピールし
ます。すなわち、裁判員裁判をわが国に根付かせるのであれば、死刑を廃止しなければならないと考えるからです。
 裁判員裁判は、刑事司法に一般市民の感覚を反映させる民主的な制度であるとの理由で
導入されました。しかし、裁判員裁判は、死刑制度が存続する限り、一般市民に「人殺し」という不正義な権限を与えてしまいます。その上、もし仮に、後日、死刑執行後に死刑の判断が誤判であり冤罪であったことが判明した場合、一般市民に「無辜に対する人殺し」という究極の不正義を犯させてしまいます。
 これまでの職業裁判官による死刑判決が、誤判であった場合(免田、財田川、松山、島田各事件)、裁判官は誰も責任をとりませんでした。自由心証主義のもとに判断したのだから手続き上、何ら問題はなかったと言い逃れをするのでしょう。今回の足利事件を判断した裁判官もアンケート調査に拠れば、そのように言っているようです。今後、既に死刑が執行されている飯塚事件が冤罪だった場合、死刑判決を下した裁判官達は何と弁解するのでしょう。同じプロでも、医療過誤事件で責任追及されるプロの医者と異なり、プロの裁判官は、「無辜に対する人殺し」という究極の不正義を犯しても法的責任を問われないばかりか、倫理的、道義的責任も問われなくて済むし、本人もプロとして過ちを合理化してしまうのでしょう。
 しかし、プロである職業裁判官と違って、素人である一般市民には、そのような芸当は出来ません。一生「人殺し」をしてしまったと悩み続けなければならないでしょう。現在の多数決で死刑が決まる制度では、3人の裁判官と2人の裁判員が「死刑」で、4人の裁判員が「死刑回避」でも死刑が言い渡されます。その結果、死刑が執行された後に冤罪であることが判明したら、「死刑回避」を選んだ4人の裁判員は、刑罰が科される守秘義務があることから、評議で「死刑回避」の意見を述べたことも公表できません。
 「死刑」を選択した2人の裁判員は、自分の一票で「無辜に対する人殺し」をしてしまったと悩み続けるでしょう。そんな苦しみを裁判員になることを強制された一般市民に味わせて良いのでしょうか。
 裁判員裁判は、そんな制度ではないはずです。
私は、先日、折衷的な、裁判官・裁判員全員一致制の立法化を求める日弁連決議を起案
しましたが、私の本心はこの点(死刑廃止)にあることをご理解下さい。
 なお、現在、メーリングリストでご紹介いただいた「無実を探せ!イノセンス・プロジェクト・DNA鑑定で冤罪を晴らした人々」を読んでいます。冤罪大国アメリカなどと対岸の火事程度に思わないで下さい。わが国も冤罪大国化する下地があることは、再審無罪を勝ち取ろうとされておられる誠実な弁護士達は気が付いておられることでしょう。わが国の裁判員を、アメリカの陪審員とは異なり、ヨーロッパの陪審員や参審員と同じように「人殺し」の片棒を担がせないようにすべきです。そのためには、死刑を廃止するしかありません。
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