「死刑廃止について全社会的議論を呼びかけます 上」法律新聞1985号

2013年03月18日

「死刑廃止について全社会的議論を呼びかけます 上」
平成25年(2013年)3月15日 週刊法律新聞1985号
小川原優之弁護士
日本弁護士連合会死刑廃止検討委員会
事務局長
第二東京弁護士会

1 はじめに
 私は、日本弁護士連合会(日弁連)死刑廃止検討委員会の事務局長をしています。日弁連は、死刑のない社会が望ましいことを見据えて、死刑の廃止について全社会的議論を行うことを呼びかけています。
 日本では、死刑の執行が繰り返されています。今年、2月21日、谷垣法務大臣は3名に対する死刑の執行を行いました。
 残忍な犯罪が起こった場合、被害者のご遺族が犯人を死刑にしようと望むのは、自然な感情であると思います。また自らが犯罪の被害にあっていなくとも、「あんなひどい奴は死刑にしろ」という人が多いのは、「正義感」のあらわれかもしれません。
 では何故、世界の3分の2の国は死刑を廃止(停止)しているのでしょうか。こう言うと、「日本は日本なのだから外国のまねをする必要はない」と言われそうですが、何も外国のまねをしろと言っているのではありません。
 日本は、人権を尊重する民主主義社会なのであり、世界の3分の2の国が死刑を廃止している理由を、自らの問題として考えてみる必要があると言っているのです。
 以下に、死刑の廃止が望ましいと考える理由について述べますが、これは日弁連の意見ではなく、あくまでも私の意見です。

2 どんな社会に住みたいと願うのか
 死刑の問題は、単なる刑罰制度の問題ではなく、私達が、どんな社会に住みたいと願うのかに深く関わっている問題なのだと思います。
 私が、是非、皆さんに読んでいただきたいパンフレットに、「死は正義ではない」(欧州評議会人権理事会http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/committee/list/shikeimondai/data/deathpen.pdf)があります。そこでは、「死刑と民主主義」について、次のように述べられています。
「 死刑はしばしば他の社会問題と切り離された別の問題として議論され、独立して評価される。これは誤解を招くものだ。死刑を廃止するか維持するかの選択は、私たちが住みたいと願う社会の種類とその社会を支えている価値の選択でもある。死刑の廃止は人権・民主主義・法の支配の理念によって特徴づけられる一まとまりの価値の一部である。
 死刑を支持する国は、殺人や他の残忍な方法が社会の諸問題を解決するのに容認される手段であるというメッセージを送っている。そうした国は、冷血で計画的な殺人を正義として正当化する。そうすることによって、社会における人間的かつ市民的な関係と、そこに住む全ての人々の尊厳を傷つけている。」
 私も、そう思います。
 殺人のような犯罪が起こったとき、関係するのは当事者である被害者や加害者だけではありません。それを取り巻く市民の社会も深く関わることになります。犯罪は、他人事ではなく、テレビのワイドショーで見る「事件」ではないのです。
 私は、人権を尊重する民主主義社会の選択として、犯罪が起こったときに、被害者のご遺族を精神的経済的に手厚く支援し、他方、加害者を厳しく罰するものの命までは奪わない(死刑を廃止する)という選択肢があり得ると思います。
 現にヨーロッパの社会は、犯罪が起こったときに、被害者のご遺族を手厚く支援し、他方、死刑は廃止しています。私は、外国のまねをしろというのではなく、ともに人権を尊重する民主主義社会であるという共通の価値観に基づいて、日本も、同様の道を歩み得ると考えているのです。

3 生命に対する権利について
  すべての人権の基礎に「生命に対する権利」があります。生きていてこそすべてなのであり、死んでは元も子もありません。犯罪の被害者は、この大切な「生命に対する権利」を侵害されたのであり、だからこそ侵害した犯罪者に対して、国家は、厳しく処罰する必要があるのですが、他人の「生命に対する権利」を侵害したからと言って、その人の「生命に対する権利」を奪っていいという理由にはなりません。
 たとえどんな「悪人」であったとしても「生命に対する権利」を有しているのであり、死刑は、国家の名で(民主主義国家ですから私達の承認のもとで)、この権利を奪うことになってしまいます。裁判員裁判をまつまでもなく、私達が死刑にしているのです。
 世界人権宣言は、すべて人は「生命に対する権利」を有すると生命権を保障し(3条)、日本も批准している国際人権規約(自由権規約)も、「生命に対する固有の権利」を保障しています(6条)。
 前述したパンフレットには、次のように書いてあります。
「人権は,極悪な罪を犯した人々を含めてすべての個人に適用される。人権の基礎にある
本質的な原理は,人権を奪うことはできないということである。人権は善行に対して与え
られるわけではなく,たとえ個人が極悪非道な残忍な行為を犯したとしても剥奪すること
は許されない。人権を信じる社会のメッセージは,これらの権利は決して侵害されるべきではないということである。人権は,私たちの中の最も善なる人にも,最も悪なる人にも適用されるのであり,これが,人権は私たち全員を守るということの理由である。」
 どうしても死刑という刑罰が必要なのか、終身刑などの他の刑罰に代えることはできないのか、今一度、冷静に考えてみる必要があるのです。
 
4 誤判について
 裁判は常に誤判の危険を孕んでおり,死刑判決が誤判であった場合にこれが執行されてしまうと取り返しがつきません。
「誤判は全ての裁判であり得ることであり、なにも死刑だけの問題ではない」と言う人もいますが、これは誤判による「執行」により何が失われるのかを考えていない議論です。
 誤った判決に基づき懲役や罰金を「執行」してしまったとしても、その人が生きている限り、金銭による賠償も可能です。しかし、誤った判決に基づき死刑を「執行」してしまったとしたら、誰に対して金銭の賠償をすると言うのでしょうか。既に死んでいるのですから、取り返しのつかない結果であることは明らかです。まさに国家による「殺人」であり、正当化することはできません。
「明らかに犯罪を犯している場合には、死刑を執行しても誤判のおそれはないじゃないか」と反論する人もいます。
 しかし、死刑制度を維持し「執行」を継続する限り,たとえあるケースでは誤判でないことが明らかであったとしても、他のケースでは常に誤った「執行」の危険性があり得ます。これは「制度」として見たとき、死刑の有する致命的な欠陥と言わざるを得ないのです。
 このような欠陥を有する死刑制度を維持し続ける必要が本当にあるのでしょうか。
 また、「日本の裁判は慎重に行われており、死刑についての誤判はないし、誤った執行の例などない」という人もいます。
 しかし、これは事実に反しています。日本では,死刑事件について既に4件もの再審無罪判決が確定しており(免田・財田川・松山・島田事件),また死刑事件ではないものの最近も,足利事件・布川事件・東電OL殺人事件について再審無罪判決が言い渡されています。死刑事件である名張毒ぶどう酒事件や袴田事件は,誤判である疑いが強く,日弁連はその再審を支援しています。また,2008年に死刑の執行された飯塚事件は,足利事件と同様に精度の低いDNA型鑑定などに基づき死刑が言い渡され執行された事件であり,現在,遺族が再審を請求しています。
 このように,誤判による死刑執行の危険性は現実的なものであり,死刑制度を維持し執行を継続する限り,常にその危険性があるのです。

5 犯罪抑止力について
 「死刑には犯罪抑止力があり、死刑がなくなれば凶悪犯罪が増える」とある法務大臣が言っていました。
 しかし、死刑に他の刑罰(例えば終身刑など)に比べて,とくに犯罪の抑止力があるという証拠はありません。また死刑の執行をやめたら犯罪が増えたという証拠もありません。
 この点について、最近二冊の興味深い本が出ました。シンガポール・香港を研究したハワイ大学のデイビッド・T・ジョンソン教授と、15年間死刑の執行を停止している韓国を研究した東国大学朴秉植教授の本です。
 死刑を存置し執行を続けているシンガポールと死刑を廃止している香港を比較したジョンソン教授の研究によれば、「シンガポールは、年間70人以上を処刑していた時代よりも、5人しか処刑しない時代のほうが、安全な都市になっているのである。・・香港との比較によっても、シンガポールにおける死刑執行数の大きな変動は、殺人発生状況にはなんらの影響を与えていない。殺人に関していえば、今日の香港ー1966年を最後に死刑執行はないーは、シンガポールとまったく同様に安全な都市なのである。」(「孤立する日本の死刑」現代人文社。81頁)。
(次号に続く。全3回)


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